ミシェルゴンドリーの監督した第一話目の『インテリアデザイン』の撮影現場に偶然鉢会わせたことがある。制作会社のピクニックに打ち合わせに向かう途中、落ち着き無くちょろちょろと動いている白人男性がいた。銀座辺りで外国人を見かけることはさほど珍しいことではないので何気なく横切ろうとしたのだがよく見るとエキストラの段取りをしていたミシェルゴンドリーであった。あの“ビョーク”とか“BECK”のPVでお馴染みのミシェルゴンドリーが銀座の歩道橋でうろちょろしている…、なんとも不思議な光景であった。完成した作品を観たらやたら銀座、新橋辺りの風景が使われていたがスタッフルームの近場で済ましたかったのだろうか?
まぁ、それはいいとしてゴンドリーの長編最新作『僕らのミライへ逆回転』を観ても感じたのだが“自主映画”に対して人一倍思い入れのある人なのだろうと感じた。いや、“自主映画”というより“手作り映画”という呼び方のがしっくりくる。“野心”や“自意識”が渦巻く“自主映画”ではなく映画という存在自体に対する純粋な“憧れ”や“遊び心”を大事にした“手作り映画”という言葉ががゴンドリー作品からは伝わってきた。
過去にLEGOブロックだけで構成されたPVを作ったゴンドリーだけあって子どもの目線を持った大人、つまりは“成熟した子ども”みたいな人なんだろうなと思った。
それとは反対にレオスカラックスの『メルド』を観て感じた印象は思春期特有の“反抗期”。「特に日本人が醜い」というようなセリフが劇中出てくるが“日本人”であるという必然性は正直薄く、カラックスにとっては“俺”意外の敵は“世界”なのであろうと感じた。まさに反抗期の中学生。だからカラックスという人は“中学生が成熟した大人”みたいな人なのであろう。
ポンジュノの『シェイキング東京』は他の2作品よりは落ち着いていて穏やかな作風であった。ポンジュノは毎回絵コンテをきっちりと書いてから作品に取りかかるスタイルをとっていて、今回も流れるようで力強いカット割りや演出は健在であったが他の2作品に比べ自分の中に引っかかる何かが無かった。上手く説明出来ないかもしれないが隙のない画作りや隙のない演出によって個人的に僕の好きな“隙間”や“間”が埋められてる気がしてしまった。それはもしかしたらポンジュノがアジア人であり日本と近い韓国の監督であるということが大きな要因かもしれない。ゴンドリーやカラックスの見る日本(東京)はやはり少し歪でありそこに僕ら日本人が新たに見つける隙間や発見があったせいかもしれない。しかしそうは言ってもポンジュノの画作り、空気感はさすがだと思ったし盗みたいと思ってしまった。
偉そうに書いてしまったが作品として最近観たオムニバスではダントツで面白かった。特に『メルド』のドニーラヴァン(地底人?)と同じ種族の弁護士の喋る何語か分からない“宇宙語”みたいなやり取りはよく分かんないけど観ていて気持ちよかった。それとオープニングの銀座の街を突き進む地底人はスカッとした(かなり日本人がバカにされている感じだけど…)。
って、結局一番印象に残ってるのは『メルド』のような気がしてきた…
山下敦弘