2008年07月24日

『ファララ』を再見して

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 フィルムセンターでPFF30回記念のプログラムが組まれていて、『リトルウィング』(81)と『ファララ』(83)を見直してみた。前者は、10代から培ったであろうサブカル的教養を駆使して、つげ義春とジミヘンがフェリーニ的語り口=騙り口の中で出会うという奇妙なユーモアをもった青春映物で、その知的早熟度は堂にいっており、学生時代に何度か見たときに比べ、ずっと判りやすく楽しめた。監督島田元氏のキャラも十二分に出ており余計な事もやってはいるが、それも今となっては懐かしい。最近はプロデューサーとしても活躍中の若き日の長髪グラサンの片嶋一貴さんが結構巧みな芝居をしていたのには大いに笑った。それにしてもこの語り口はなかなかユニークで、へんな言い方だが妙に勉強になったように思う。
 一方、塩田明彦の『ファララ』は、ブレッソンやゴダールをとことん見ていなければ撮れっこないごっつい作風で、やはり以前見たときよりずっと鮮烈であった。撮影がまさにヌーヴェルヴァーグのような瑞々しさで、一種の音楽映画でもありつつ、なぜかサイレント映画の匂いもするというプリミティブな味わいをもった傑作。そういう意味で懐かしさとは無縁に今なお刺激的な映画として見れた。ただその様式の完璧さを超えいかにも塩田だと思わせたのは、主演女優のエロスを、まさしく80年代の女子大生が孕んでいた恥じらいの肉体として繊細に描き得たという点で、学生時代に見た77年生まれの向井康介をして“エロい”といわしめた、90年代以降のエロい感覚とはずいぶん異質な、なんともいえない生々しさ、青っぽさが凄まじく、またそこだけは妙に懐かしくもあり、真のデビュー作『露出狂の女』にもその生な感じは流れ込み継承されていたように思う。塩田監督が谷村美月にこだわるのも、その今風とは決して言えない生々しさ故ではなかろうか?
ファララからどろろへ。この悪戦苦闘の果てに中年男を撮りたい、アクション映画を撮りたいとの作家的自意識をもてあましているかにみえる塩田明彦だか、やはり女優を本気で撮っている彼こそが無条件に面白い、と『ファララ』を見直して思った。


根岸洋之


posted by ピクニック at 14:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする