2008年09月30日

ナレーションという奴

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 最近、ナレーションについて考えていた。

 というよりは雑多に映画を見ていて、ここにもナレーションかと気づくことが多く、そのことをとりあえずメモっておこうと思い記してみた。
 20年近く昔、森崎東さんと色川武大原作ドラマの仕事をしたとき、脚本は高橋洋だったが、ナレーションで物語を紡いでゆく構成だった。日活のスタジオで唐十郎さんのナレ撮りをしたとき、そもそも脚本には記載されていなかった最後のシーンのナレをどうするかとなり森崎監督は「唐さん考えてみて下さい」とあっさり劇作家でもある主演俳優に投げ、一瞬で思いついた唐さんが「どこかでブンと羽音がします。でもそんなものはどこにもいません。それは震えるすみ子の息づきでした」と絶妙な文句をひねりだした。
 多くの評者が言うように森崎東脚本、山田洋次監督というコンビは、日本映画史に残る最強の監督脚本家チームのひとつだと思うが、実は見逃していた『吹けば飛ぶよな男だが』をDVDで見てみたら頭に弁士風情の小沢昭一が出てきて「只今よりお目にかけまするは松竹映画、題しまして吹けば飛ぶよな男だが、夢多くかつまた躓き多き若き日の人生行路の一編、不肖私及ばずながら画面の進行に連れてご説明申し上げますればどなた様にも最後までごゆっくりとご高覧のほどお願い申し上げます」との前口上があり、音楽が来てアヴァンタイトルに続くいかにも森崎さんだなぁという導入部。アヴァン中にもこの漢詩調のナレーションは続き「大都会の谷間に日は沈みここ大阪にも一日の終わりが訪れる。今日一日の労働に疲れたる人々が楽しき家路を急ぐ頃、やがて煙の都はネオンの都へとうつり変わっていくのである・・・」と来て本編が始まり、なべおさみが登場し、しばらくすると「これなる少年はこの一編の主人公三郎である」と紹介される。ナレーションの無意識にサイレント期の弁士の説明がこだましている事を示す鋭い展開ながら難しい印象は全然ない。特典で見れる山田洋次インタビューを見ると彼が「森崎さんは、まあ非常に漢詩の教養のある人でねぇ・・」などとつぶやいていた。『なつかしい風来坊』の場合は違ったナレーションで、脇役であり、傍観者的な有島一郎の「あの当時私は痔で苦しんでいた。痛さに耐えきれずに早退きをしたある日私はあいつに初めて会ったのだ」というナレーションにより奇妙な風来坊=ハナ肇との出会い、その顛末が語られてゆく。ここには一種の愛すべきダメ男への哀惜の情があり、温かい視点から風来坊について語っていくので見る者もそれに影響されるわけだ。
 ナレーションといっても色々あるが、乱暴に分類してしまうと次の幾つかのパターンのうちのどれかになるのだと思う。

1、主人公自身が語る。見てはいないので迂闊な事はいえないが、きくところによれば『私は二歳』は赤ちゃんの視点から語っているという。最初に記した唐さん主演のテレビドラマのナレーションも主人公自身の視点から別れた奥さんとの関係などを語っていった。ブレッソンの『スリ』の冒頭を見ると何か手記のようなものを書き記している手の描写にあわせ「普通実行者は沈黙し語る者は実行していない。だが僕は実行した」とナレーションがかぶり、スリのシーンへとつながり、そこに心の声のような「数日前に決めていた。僕に度胸が?」というナレーションが響く。

2、脇役が語る。『なつかしい風来坊』がこのパターン。あるいはサミュエル・フラーの『最前線物語』のように、モノクロ映像で始まる1918年、リー・マーヴィンが戦争の終結を知らずにドイツ兵を殺してしまったことを知る巧みな導入部から色がついて第二次世界大戦へとポンと飛び「その赤い布はやがて世界的に有名となった。勇敢をもって鳴るビッグレッドワンの記章として。その24年後ビッグレッドワンは再び戦った。第二次大戦のアフリカ作戦である」というナレーションが流れ、最初は誰が言っているのかわからないが、ひとりひとりを紹介するシーンに至って「これが俺サブ、小説を描いていた」と自己紹介、ビッグレッドワンの一員で、おそらく戦争に生き残り小説を書き、後には映画監督としてまさしく『最前線物語』という映画を撮る事になるフラー自身の自画像のようなキャラクターのナレーションだったと知れる。この場合脇役ではあるが、主役はリー・マーヴィンとも部隊ともいえるので、部隊の一部が語り手となっているとしたら1のパターンだし、それが作家主体に限りなく近いキャラという意味では3ともいえそうだ。

3、客観的なナレーション。これは誰が語っているのか特定できないが、映画の物語や人物関係の複雑さなどを客観的俯瞰的視点(メタレべル)より語り、映画に入り込みやすい環境をつくるという手法。わかりやすいのが東映ヤクザ映画の、特に実録物の禍々しいが説明的なナレーション。『仁義なき戦い』シリーズなどが判りやすいが、これは時代劇でもよく使われていた慣習で初めて耳にする年号などから重々しく始まったりもする。『吹けば飛ぶよな男だが』も3にはいると思うが前述したよう印象は東映とは全然違う。トリュフォーのように小説風というか画面に対し息せき切った口調で監督自身がナレーションを担当するようなケースもあるが、キューブリックの『バリーリンドン』のような冷酷無比なナレーション(発音が昔のイギリスっぽくっていやらしさを増す)によって主人公の窮状をよりいっそう際立たせるような意地悪な作風もあり、映画作家や会社によってもバラエティに富む。 
 
 最近見た『主人公は僕だった』という映画では主人公の一挙手一投足の微細な総てについて語る声がやたらと客観性を強調するかのような女性の口調で入って来るが、これは一見神の声、客観的なナレーションかと思いきや、この声を発しているのは、登場人物として映画中に存在しており、映画に出てくる“主人公の男”を主人公に小説を書いている女流小説家で、“主人公の男”はこの小説家に会い、その小説の結末を読み、ショックを受けるという展開。3を装う2のパターンであった。

 さて収拾がつかなくなってきたのでこのへんでやめておくが、いずれナレーションという奴を使って面白い事をやってみたい。


根岸洋之


posted by ピクニック at 15:21| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月22日

TOKYO!

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 ミシェルゴンドリーの監督した第一話目の『インテリアデザイン』の撮影現場に偶然鉢会わせたことがある。制作会社のピクニックに打ち合わせに向かう途中、落ち着き無くちょろちょろと動いている白人男性がいた。銀座辺りで外国人を見かけることはさほど珍しいことではないので何気なく横切ろうとしたのだがよく見るとエキストラの段取りをしていたミシェルゴンドリーであった。あの“ビョーク”とか“BECK”のPVでお馴染みのミシェルゴンドリーが銀座の歩道橋でうろちょろしている…、なんとも不思議な光景であった。完成した作品を観たらやたら銀座、新橋辺りの風景が使われていたがスタッフルームの近場で済ましたかったのだろうか?
 まぁ、それはいいとしてゴンドリーの長編最新作『僕らのミライへ逆回転』を観ても感じたのだが“自主映画”に対して人一倍思い入れのある人なのだろうと感じた。いや、“自主映画”というより“手作り映画”という呼び方のがしっくりくる。“野心”や“自意識”が渦巻く“自主映画”ではなく映画という存在自体に対する純粋な“憧れ”や“遊び心”を大事にした“手作り映画”という言葉ががゴンドリー作品からは伝わってきた。
過去にLEGOブロックだけで構成されたPVを作ったゴンドリーだけあって子どもの目線を持った大人、つまりは“成熟した子ども”みたいな人なんだろうなと思った。

 それとは反対にレオスカラックスの『メルド』を観て感じた印象は思春期特有の“反抗期”。「特に日本人が醜い」というようなセリフが劇中出てくるが“日本人”であるという必然性は正直薄く、カラックスにとっては“俺”意外の敵は“世界”なのであろうと感じた。まさに反抗期の中学生。だからカラックスという人は“中学生が成熟した大人”みたいな人なのであろう。

 ポンジュノの『シェイキング東京』は他の2作品よりは落ち着いていて穏やかな作風であった。ポンジュノは毎回絵コンテをきっちりと書いてから作品に取りかかるスタイルをとっていて、今回も流れるようで力強いカット割りや演出は健在であったが他の2作品に比べ自分の中に引っかかる何かが無かった。上手く説明出来ないかもしれないが隙のない画作りや隙のない演出によって個人的に僕の好きな“隙間”や“間”が埋められてる気がしてしまった。それはもしかしたらポンジュノがアジア人であり日本と近い韓国の監督であるということが大きな要因かもしれない。ゴンドリーやカラックスの見る日本(東京)はやはり少し歪でありそこに僕ら日本人が新たに見つける隙間や発見があったせいかもしれない。しかしそうは言ってもポンジュノの画作り、空気感はさすがだと思ったし盗みたいと思ってしまった。

 偉そうに書いてしまったが作品として最近観たオムニバスではダントツで面白かった。特に『メルド』のドニーラヴァン(地底人?)と同じ種族の弁護士の喋る何語か分からない“宇宙語”みたいなやり取りはよく分かんないけど観ていて気持ちよかった。それとオープニングの銀座の街を突き進む地底人はスカッとした(かなり日本人がバカにされている感じだけど…)。

って、結局一番印象に残ってるのは『メルド』のような気がしてきた…

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山下敦弘
posted by ピクニック at 14:20| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月11日

コドモのコドモのコドモたち

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にやけた監督と愛らしい谷村さん

 『コドモのコドモ』のメイキング番組ができあがりました。オン・エアはM-on!にて9/19、20:00より。リピート放送も予定されております。

 ちなみにこの番組には案内役がいて、声の出演、すなわちナレーションを、映画中で秋美というお姉さん役をやった谷村美月さんが担当してくれました。彼女はご存知のように関西在住なので、発音がばりばり関西風、ナレーションの細部に於いて、何か発音がちょっと違うぞという箇所(たとえば“安堵”。“あ”を強調するのが関東、“ど”を強調するのが関西。谷村さん発音だと“納戸”みたいな感じに成る訳です)が幾つか生じ、そこを何度かやり直す事になりました。ディレクター氏も神戸出身だからか意外と気にしていないので、マネージャー氏や、わたくしなどが発音の直しに乗り出したほどでした。谷村さんはとてもナレーションを楽しめたようで、作業はとどこおりなく終わり、そのほのぼのとした肉声がこの番組に温かいぬくもりを与えてくれました。

 ちなみにディレクターというか監督は志子田勇くん。大阪芸術大学出身(またしても!)の自主映画作家で、最近は助監督などもやっているようですが、昨年のPFFで審査員やったおり『革命前夜』なる小品を出品してきて出会いました。賞はとれなかったのですが、ちょっと気になる作品だったのでメイキングで声をかけた次第で『コドモのコドモ』の現場では、メインキャストに限らず現地のコドモたちにえんえんカメラを向け、ミニDVテープを100本以上も回しておりました。映画も結構見ているようで、自宅での編集にお邪魔したところ、『ジュリアン』『ウェスタン』・・・などなど安売りビデオが山積みになってました。そういえばこの番組にもハーモニー・コリン風の画面があったような・・・。編集に関してはいろいろ口を出させてもらいましたが、最後の方の凧揚げのシーンは志子田タッチ(笑)になっていて、とってもいい感じです。この番組では、さそうさん、谷村さん、監督などのサイン入り脚本プレゼントなどもあり、とっても魅力的なグッズになりましたので、是非覗いてみて下さい。コドモ達も映画とはまた違った無防備な表情を見せており、映画も含め両サイドから楽しめる内容になっている思いますので。
 

根岸洋之
posted by ピクニック at 17:25| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月01日

日比谷野音でクラムボン

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 昨日、日比谷野音にてクラムボンを見ました。
 野音でクラムボンがライブをするのは今年で6回目という事ですが、昨年は見逃していたため(あるいは昨年はやらなかった?)、おそらくは僕自身は5回(あるいは6回)見たという事になりそうです。
 正確な記憶ではありませんが、確か2002年に初めて行ったのだと思います。そのときはそんなによくクラムボンを知らずになんとなく行って、しかしライブを見たとたんにとっても好きになったのだったかなーと。野音のライブではいつもシャボン玉を配っているので、夕方になるにつれ照明の光を受けシャボン玉がキラキラしていくさまはなかなかの光景でそこにクラムボンのライブアクトが加わるとえもいわれぬ愉悦がその場にわきあがるのです。
 原田郁子さんやミトさんがときどき「野音サイコー!」とか言う気持ちはよくわかります。
 確か2年前のときには『神童』の後だったので萩生田監督や北原京子夫妻等と行っていたと記憶しています。このときは挨拶に楽屋裏まで赴きました。
 今回のライブは、当初土曜だけのスケジュールだったのが急遽その週の日曜も空いているということがわかり、慌ててやることになったのだという話で、そんな急な展開にもかかわらずお客さんは満杯、とにかく盛り上がっておりました。
 アンコールの際、遂に強い雨が降り出しましたが、客席の人たちはすぐさま一斉に雨合羽を羽織ったのは面白い景色でした。
 ちなみに今度やろうとしている映画に70年代の野音のシーンが出て来ますが、ここにいる限りは70年代も21世紀もないなと実感できたものです。

根岸洋之
posted by ピクニック at 18:51| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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